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ジャン・アレジ

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ジャン・アレジ(Jean Alesi )

 

本   名
ジョバンニ・アレジ
通   称

生年月日

1964年6月11日

主な記録

1987年フランスF3チャンピオン
1989年国際F3000チャンピオン

Formula 1
出走 201回 (歴代 5位)
優勝   1回 (歴代 62位) 1995年カナダGP
PP    2回 (歴代 50位) )
FL    4回 (歴代 42位)
獲得ポイント 241点 (歴代21位)

F1での主な戦績
1989年

ティレル018・フォード 
決勝最高位 4位
予選最高位 9位
シリーズ   9位 (8P)

◆ティレルのM.アルボレートがシーズン途中で離脱し、その代役として国際F3000に参戦していたアレジが代役として抜擢される。
デビュー戦の第7戦フランスGPでいきなり4位入賞という結果を残す。第14戦スペインGPでも4位に入賞し、才能をアピール。次年度のレギュラーシートを獲得する。

1990年

ティレル019・フォード
決勝最高位 2位
予選最高位 3位
シリーズ   9位(13P)

◆中嶋悟のチームメイトとしてティレルからフル参戦。
初戦のアメリカGPでアイルトン・セナとの大バトルにより、ファンにその名を知られることとなる。
予選4位からスタートしたアレジは、市販の非力なフォード・コスワースDF-R・V8を搭載するティレルでトップに躍り出る。しかし、それを追ってくるのはチャンピオン、アイルトン・セナ。セナはスリップ・ストリームから抜け出すと、右コーナーの第1ターンでアレジのインへ入って行った。さすがはセナ。見事なパッシング、そう思った瞬間、続く左ターンに向かうセナのインにアレジが飛び込んでくる。アレジがセナを抜き返したのだった。翌周同じ場所で、再びセナはアレジを抜き、再度の逆転はならなかったが、そのバトルはクリーンでF1の魅力を世界に伝えるシーンであった。
第4戦モナコGPでも2位に入賞。次代を担うドライバーとして、将来のチャンピオン候補として評価は確立された。
そして、翌年のフェラーリ入りが発表される。ウィリアムズ移籍をキャンセルしての、フェラーリ移籍だった。

1991年

フェラーリ 642
決勝最高位 3位 
予選最高位 4位
FL       1回
シリーズ   7位(21P)

◆あこがれであったフェラーリに移籍。チームメイトはA.プロスト。デビュー3年でのフェラーリ入りは異例の事でもありアレジの快進撃がはじまると思われていた。 しかし、フェラーリは徐々に戦闘力を失っていく。
3位表彰台3回を含む入賞7回、そしてリタイアが8回。それでも、第1戦アメリカGPでは、自身初のファステスト・ラップを記録している。

1992年

フェラーリF92A  F92AT
決勝最高位 3位 
予選最高位 3位
シリーズ   7位(18P)

◆チームメイト(I.カペリ、N.ラリーニ)と共に完走がままならないシーズン。期待されたフェラーリF92Aは失敗作だった。リタイアが10回。完走すれば全て入賞(3位、4位、5位各2回)という結果を残すものの、フェラーリの期待はアレジにのしかかる。
この年、アレジに押し出される形で、当初アレジが移籍するはずだったウィリアムズに乗ったマンセルは圧倒的な速さでチャンピオンを獲得していた。
(ちなみに、F92Aは失敗作とされるが、管理人は好きなマシンの一つです)

1993年

フェラーリF93A
決勝最高位 2位 
予選最高位 3位
シリーズ   6位(16P)

◆G.ベルガーが、チームメイトして加入。
ドライバーのテクニックが重要な第6戦モナコGPで3位、フェラーリの地元の第13戦イタリアGPで2位と健闘はするものの、それ以外は4位入賞が2回あるのみ。リタイアは9回を数えてしまった。

1994年

フェラーリ412T1  412T1B
最高位  2位 
PP    1回(イタリア)
シリーズ 5位(24P)

◆94年は、フェラーリはやや戦闘力をとりもどしはじめる。アレジも前半は好調な成績を残すも、中盤に失速。そんな中迎えた第12戦イタリアGPではじめてのポールポジションを獲得。デビュー以来83戦目での初PP獲得だった。
第15戦日本GPでは豪雨の中、ウィリアムズのマンセルと130Rでサイドバイサイドの大バトルを展開しアレジ健在を印象づける。クリーンでかつ激しいバトルののち3位表彰台を獲得。シリーズ5位はデビュー以来最高のランキングだった。
フェラーリのカーナンバー27をつけて疾走するアレジは、常にファンを熱狂させていた。

1995年

フェラーリ412T2
優勝      1回 (カナダ) 
予選最高位 2位
FL       1回
シリーズ   5位(42P)

◆ついにその日がやってきた。1995年6月11日、第6戦カナダGP(ジル・ビルヌーヴ・サーキット)。予選5位からスタートしたアレジは、上位の脱落やトラブルも有り、トップに浮上。シューマッハーが追いすがる中を振り切り、アレジがチェッカーフラッグを受けた。F1参戦93戦目の初優勝だった。
アレジがあこがれたジル・ヴィルニューブの名を持つサーキットで、そのジルが付けていたカーナンバー27のフェラーリでの優勝。誰もが彼を祝福した。

1996年

ベネトンB196・ルノー
決勝最高位 2位 
予選最高位 3位
FL       2回
シリーズ   4位(47P)

◆シューマッハーのフェラーリ加入と入れ替わる形で、ベルガーと共にベネトン・ルノーに移籍。
2位4回、3位4回と8回の表彰台を獲得、さらに3回の入賞し、FLも2回記録。コンスタントな成績を残し、フェラーリから離れたことで自身最高のリザルトを残す結果となった。

1997年

ベネトンB197・ルノー
決勝最高位  2位
PP        1回(イタリア)
シリーズ    4位(36P)

◆イタリアGPで自身2度目のポールポジション獲得。フェラーリにのるドライバーよりも多くのファンの喝采を受け、アレジがいかにティフォシに愛されていたのかが分かるシーンだった。
しかし決勝の結果は2位。チームメイトのベルガーはドイツGPで優勝したが、アレジは優勝に届かない。

1998年

ザウバーC17・ペトロナス
決勝最高位  3位
予選最高位  2位
シリーズ   11位(9P)

◆フェラーリのカスタマーエンジンであるペトロナスを搭載するザウバーに移籍。チームメイトはJ.ハーバート。
しかしマシンが走らず、成績は低迷する。予選でも10位以下となることが多かったが、第10戦オーストリアGPでは見事に予選2位を獲得。第13戦ベルギーGPでは、予選10位からスタートして3位表彰台を獲得してみせる。

1999年

ザウバーC18・ペトロナス
決勝最高位  6位
予選最高位  2位
シリーズ   15位(2P)

◆チームメイトは、P.ディニス。
前年よりもマシンの戦闘力は低下。入賞はサンマリノGPと日本GPの6位入賞が2回のみ。しかし、第7戦の母国フランスGPでは予選2位を獲得してみせる。

2000年

プロストAP03・プジョー
決勝最高位  9位
予選最高位  7位
シリーズ    --位
◆かってのチームメイト、元チャンピオンのアランプロストが運営する、プロスト・プジョーに移籍する。チームメイトは、N.ハイドフェルド。
しかし、マシンは走らず予選最高でも9位、最高位7位、リタイアは12回とデビュー以来はじめてノーポイントに終わる。

2001年

プロストAP04・エイサー (第1~12戦)   
ジョーダンEJ11・ホンダ (第13戦~17戦)  
決勝最高位  5位
予選最高位  9位
シリーズ   14位(5P)

◆プロストGPはエンジンをフェラーリのカスタマーエンジンに換装するが、マシンの戦闘力は上がらず。シーズン途中で、第13戦からはジョーダン・ホンダに移籍した。
最終戦、鈴鹿の日本GP直前に行われた、ブリヂストン・プレス・ミーティングの席上で突然の引退発表。出席していたフェラーリのジャン・トッド、ミハエル・シューマッハーらも驚くとともに、強く慰留したが決心は変わることは無かった。
「アレジ、引退!」この突然のニュースを聞いたファンはその最後の走りを見ようと鈴鹿サーキットに詰めかけた。しかし、レースはマクラーレンの新人ライコネンのスピンに巻き込まれる形でリタイア。静かにサーキットを去った。

 ジャン・アレジのF1全成績はこちらをご覧下さい(F1 Data Web)

ジャン・アレジの記憶

イタリア系フランス人、ジャンアレジ。
彼は赤いレーシング・スーツがよく似合った。

アレジのF1での記録は、優勝回数1回、PP 2回。シリーズランキング最高4位。決して大成功したレーサーではない。
しかし、その記録を遙かに超えて、ファンの記憶に刻み込まれている。記録ではなく、「記憶に残るレーサー」まさに典型であり、彼は勝つことではなく、魂のこもった走りと決してあきらめない闘志でファンの心をつかんで離すことはなかった。

「正しい時に、正しい場所にいること」あるチャンピオンドライバーは、成功する秘訣をこう語った。

そう、アレジは正しいときに正しい場所にいなかった。頭での判断と、気持での判断が揺れ動いたとき、自分の気持ち正直に従ってしまったから・・・。

1990年アメリカGPでのセナとのクリーンで激しいバトルで一躍注目を浴びたアレジは、翌91にはウィリアムズに移籍を決めていた。ウィリアムズ・ルノーは90年にも2勝し、トップクラスのチーム。アレジがその才能を開花させるためには、最適のチームと思われた。

しかし、そこにフェラーリからのオファーが入る。フェラーリは90年A.プロストがセナとチャンピオン争いを繰り広げていた。フェラーリは新人が乗るチームでは無いとの一部の声を押し切り、アレジはウィリアムズとの契約を白紙に戻してまでしてフェラーリへの移籍を決める。
プレッシャーの大きさ、チームの勢い、色々と考えれば当時のアレジにはウィリアムズがベスト。それをわかっていながら、アレジにはフェラーリのドライバーになるというチャンスを逃がすことが出来なかったのだ。

しかし、フェラーリは次第に混乱、低迷していく。表彰台に乗ることはしばしばだが、勝利に手が届かない。
逆に、本来アレジが乗るはずだったウイリアムズのマシンに乗ったマンセルは快進撃を開始し、92年には圧倒的な速さでチャンピオンを獲得した。

アレジは正しい場所を間違えてしまったのだろうか。
しかし、アレジはフェラーリに身も心も捧げ、全身全霊でマシンを走らせていた。熱い走りは数多くのファンの心をつかみ、多くのファンの声援を受けながら走り続けた。

いかにティフォシに愛されたか。97年ベネトンに移籍していたアレジがイタリアGPでPPを獲得すると、イタリアのファンはフェラーリに乗るシューマッハーよりも多くの拍手で祝福されたのだ。

シューマッハーと入れ替わる形で、ベネトンに移籍するが、そのブルーのスーツ姿に大きな違和感を感じたファンも多かったのでは無いだろうか。
今回、アレジの戦績などを調べていて、少し以外だったのは、このベネトン時代の2年間がフェラーリの5年間に比べて成績は安定、優勝こそ無いものの、ランキングも上回っている。

その後、ザウバー、プロスト、ジョーダンと移籍し、2001年日本GP直前に突然引退を宣言。多くのファンに惜しまれながらF1から身を引いた。

その後は、DTM(ドイツツーリングカー選手権)にメルセデスから参戦。変わらぬ熱い走りを見せてくれている。

結局、アレジは熱い走りでファンを虜にしながらもチャンピオンになることは出来なかった。
正しいときに、正しい場所に。91年予定通りウィリアムズに移籍していたら、F1はセナとアレジ、そして後に台頭するシューマッハーの3強の時代となっていたかも知れない。
しかし、当時のアレジにとってフェラーリからの誘いを受けた以上は、選択の余地は無かったのだろう。アレジにとって、フェラーリこそその当時は最も正しい場所だった。

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